

20XX年。
都内大手電力会社に勤める男は
ある晩会社にかかってきた電話をとる。
電話口からは「ひとごろし」という声がした。
幻聴か、現実か。
神経衰弱に陥った男の日常が徐々に揺らぎ始める。
救いを求めて彷徨い歩く男は、
やがて得体の知れない巨大な影を見る。
その正体は何なのか。
男の不安が頂点に達した時、
ついに“魔”が都市を覆い始める――


脚本・編集・監督・プロデューサー
楫野 裕
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その他のキャスト & スタッフ
安竜うらら 井神沙恵 岡奈穂子 佐藤晃 國岡伊織
鈴木睦海 瑞貴 中信麻衣子 長谷陽一郎 山下輝彦
いとうたかし ターHELL穴トミヤ 新谷寛行
制作・配給:第七詩社 宣伝:contrail


※写真要変更!
2019年 4月13日(土) ~ 26日(金)
レイトショー公開!
特別前売鑑賞券:1,300円/当日一般1,800円/大学・専門学校生1,500円
初日舞台挨拶あり、期間中ゲストトークも開催予定。
※詳細は劇場または公式HPでお知らせ致します。



政治も経済も行き詰った平成の世が終わりを告げようとしている。
あたかも信仰のように社会のデジタル化が進む中で、時代に抗う1本の映画が制作された。
「阿吽(あうん)」をタイトルに冠したこの映画は、懐古趣味ではなく、最先端の手段として8mmモノクロフィルムを選択している。
ザラつきながらも深度のある闇。
一瞬差し込む光線の煌めき。
いずれもが破壊と再生を繰り返す現在の東京と人間を描き出す。
監督は、『胸騒ぎを鎮めろ』『SayGoodbye』などの作品が国内外で評価されてきた楫野裕。
初の長編となる本作は、カナザワ映画祭2018「期待の新人監督」部門のオープニングを飾った。
“もうひとつの日本の姿”を覗き見よ。


あうんというのは梵語で意味するところの万物の始めから終わりとのことであるが、楫野監督の本作では世界に個人が飲み込まれる時の音のように思える。自分が自分としての生を無理矢理、放棄させられたとき。またそれを自覚することすら才能になってしまった末世ではもはや他人の命も自分の命も木っ端屑なのだろう。覚醒とは呼べぬドン底への道行き。これを白黒で活写しようとした意気込みは素晴らしい。
平山 夢明 (作家)
二本の樹の幹の表面と川面をありえない人影がよぎり、主人公が木漏れ日を浴びつつ、森のなかをまるで足を使っていないかのように進む。
ここには、まぎれもなく映画が息づいている。物語に恐怖するのではない。映画に恐怖するのだ。
伊藤 洋司 (中央大学教授)
『阿吽』の衝撃。一人の男が鬼になる。我々はその過程をじっと観察する。ムルナウ『ノスフェラトゥ』やドライヤー『吸血鬼』を激しく喚起する古典的なショットの連なりの中心を、現代を生きる人間のエモーションが貫いている。闇に震える画面を見守る我々もきっと鬼になる。驚くべきラスト。この映画の大胆不敵さに茫然とする。
田村 千穂 (映画批評・研究)
闇に覆われていると感じたことがありました。感じるだけで目にすることはなかったのですが、この映画の闇を見て、その時の感覚が蘇りました。陽の光の中、何かを捕まえようとする男の様子を見て、あの日を境に漂うことになった目には見えない物質を感じていました。モノクロ8ミリフィルムで撮影された、ザラつく闇と光の質感に、見ることと感じることが噛み合わなくなっていました。
女池 充 (映画監督)
映画監督・楫野裕は、カットのイメージ一つ1つを、決して野放図に紡ぐことがない。ひとつの時間に連なる、これまで・いま・これからのカットは、ある高低差から互いを見つめ合い結び合い、ときに豪放磊落な高さを駆ける。それは氏の奔放な感性によるものかと一時期思っていたが、むしろカットを裁断し続けては端正に切り建てていく、彫刻師のような構築への意思なのだ。それでは“東日本大震災直後の心象”という材と、氏の豪放磊落さと構築への意思とが、なぜ白黒フィルムでの端正な撮影、によって結ばれるのか。あのときの、街じたいではない。言葉でもない。数百年に一度の災厄に際し、不変である自身への焦燥でもない。...映画は、街も言葉も人間も、闇の奥からすすけて輪郭を結んでいく煙や影のように、すべてを等価値に、石の奥ににじむ遥かな記憶へと結ぶ。映画『阿吽』は、石の奥に眠る記憶を思い起こすように、あのときを、そしてあるいは、かつて石や木を無心に彫り、その中になにかを探した人々を思い出すのではないかと思った。
木村 文洋 (映画監督『息衝く』)
この映画は、観る、というより、覗く、に近い。楫野裕は瞬間を切り取る能力を持っている。その瞬間ごとには、意味などないのかもしれない。しかしその「瞬間」が連続性を帯びたとき、果てしなく強大で禍々しいものの輪郭がいよいよ現れてくる。そのときに我々ははじめて「それ」が、実は見えなかったのではなく、大きすぎて視界に入りきらなかっただけのことであったのだと気が付くのである。それは寝ている他人の脳天をかち割って、悪夢の断片を覗き見ているような、それでいて、ホルマリン漬けが入った綺麗な瓶に映り込んだ自分自身をも見ているような、不可思議な感覚だ。強迫観念、不安、恐怖、高揚、背徳。それらを形にするのは難しい。笑いや感動が安易に手に入るこの時代、少しくらいの苦痛を伴いながらでも、自分が目にしたものや耳にしたものが一体なんであったのかを考える時間というものが、いまの我々には必要なのだと痛感する。この作品が悲劇なのか喜劇なのか、それを決めるのは他人のレビューや星の数ではない、あなた自身なのだ。現代のデヴィッド・リンチ、ここに誕生!